trips:05 旅と検索と見つからないものと

2020年2月23日日曜日

#雑記 #旅

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 三時のおやつを我慢してプラモデルを買ったり、昭和残念系レコードを買い漁る代わりに服にはカネをかけなかったり、漁師かよってくらい釣り道具特化型で酒もタバコも止めたよという人ならあるいは伝わるかもしれません。

 背中に見えない羽が、見えないのに色は多分真っ黒な羽が生えちゃったものですから、居ても立っても居られないというか、どちらかというと居たたまれない感じになっちゃいましてね。

 今後二週間はそうめん生活を余儀なくされるとしてもいい、なんならネギもミョウガもなしでいいよという優れた計画性を発揮して、夜の駅から旅立って知らない街の知らないホテルに着地しました。してやりました。


いい時代になった


ある路地

 いい時代になったというか、まぁ便利な世の中でね。
 行きたい場所が見つかったなら、どこのなんていう駅のどのホームから電車に乗って、どこまでいくらで行けるのか。
 目的にしている場所やその沿線の街に宿の空きがあるか。なんならその宿がこ汚いかどうかも、スマートフォンで調べられちゃうご時世です。
 
 昔みたいに、初めて降り立った、ほぼ無人駅に近いようなローカル線のロータリーの隅にある電話ボックスで、イエローページをめくって「ホテル・旅館」を左肘で開いた状態にしたまま、テレホンカードの残高を気にしながら片っ端から電話かけなくていいんですよ。
 ネットで調べたらそのままの流れで、部屋の予約までできちゃうんです。お気楽なもんですよ。気にするものといえばSuicaの残高くらいでしょうか。

 こうやって不定期に突発的にそして日常のように、何か切り詰めても捨ててもいいから、今すぐナウどこか遠くへ行ってしまいたい病に侵されるダメ人間としては、いい時代です。
 そんな気分になったらすぐにネットであれこれ調べられる現代は、何度でも繰り返しますがいい時代になったと言わざるを得ません。

いくらおひとりさま慣れしても


 ネットで検索といえば、飯屋。これも様変わりしました。
 インターネットの普及によって、いわゆるハズレを引きにくくなったなぁという実感はありますよ。
 食べログ的な口コミサイトはあまり参考にしませんが、お店自体が自店のウェブサイトやSNSを公開して情報発信していたり、お客さんがそのお店のことを同じくSNSなどで発信してるのはチラ見したり。
 
 ちょっと前までは、ホテルのフロントで近所の情報を聞いたり、街ブラ的にウロウロして店構えを見て入ろうかどうしようか、店の前で様子をうかがったりしたもんですよ。
 
 地方ってお店の閉店時間が早いでしょう。
 すでにやってる店も少なくなった頃合いの地方の寂れた裏通りで、「スナックけいこ」とだけ書かれたうす黄色い看板の店の他には、飯を食えそうな場所が見当たらない。
 確かに暖簾は出てるけどさ。
 すそが3枚に分かれたその1枚ずつに、け い こ と毛筆体で書かれてる暖簾は下がってるけどさ。
 その後ろの引き戸はピッタリしまったままだし、入口にメニュー表なんて貼っちゃいないのは当然としても、音どころか明かりも漏れちゃいないような感じの店構えですよ。
 そこにガラガラっと入っていくにはね。
 
 敷居が高いっていうか、常連さん以外お断りバリアー的な、目に見えないなにかがビンビンに出ちゃってるわけでしょ。
 無理だって。
 
 蛮勇を叩いて引き戸を開けて、万が一その店がやってたとしてもですよ。
 カウンターしかないような、こじんまりにもほどがあるような店ぎゅうぎゅうに座ってる常連と女将さんが一斉にこちらを見る、あの視線に耐えられるわけがないでしょうよ。
 
 いくらおひとりさま慣れしきってて、カラオケだろうが焼き肉だろうが八景島シーパラダイスだろうがひとりで行っちゃうようなロンリーウルフだとしても、ロンリープラネットだとしてもね。無理っすよそんなの。
 
 ホテルへの帰路が分かるうちに引き返して、愛想のかけらもないフロントのおじさんに市価よりもずっと高いカップ麺を売ってもらおうと泣く泣く引き返すようなことも、今ではほぼ皆無といっていいんじゃないでしょうか。

旅に出る必要はあるか

船旅

 そう考えると、ネットを探すと欲しい情報がほぼほぼ見つけられる環境にある現状、旅に出なくてもいいのかもと思う瞬間がなくはないんですよね。
 
 だって高解像度の画像や動画、ともするとVRなんかで現地に行くには相当ハードルの高いであろう風景を見ることもできますよね。
 有名店の通販でお取り寄せすれば、評判の美味い物だって食えるじゃないですか。
 アトラクション性のあるようなことなら別かもしれませんけど、それにしたってそれを補完するくらい充分な情報を見つけることができて、もうそれでお腹いっぱいってこともあるんじゃないかなって思うんです。
 
 そうなると、旅ってなんだろうと。
 
 特に私のように、観光に行きたいわけでもなく美味しいものを食べに行きたいわけでもなく、居たたまれなさに耐えかねるようにここでもないあそこでもないと旅を続ける者には、あえて行かなくてもネットを探せば分かったような気になれる今って、便利でいい時代だと思いつつも待てよと。
 
 そもそも、この現代において、旅をするってなんだろうと。そんなことを考えてしまうこともあるんです。

見つからないもの


水上駅

 ネットの普及で旅は変わったなと思うんです。
 でも、色んな迷いとか、欺きとか、ざわめきがあっても、つまるところ旅人は変わらないのかもなって。最後はそこに辿り着くような気がしています。
 
 小さなベッドと無駄に大きなテレビとコンパクトなユニットバスで構成された、知らない街の知らないホテルの部屋でにぽつねんと座ってね。
 あるいは、エンジンを切って目張りをした車の窓からも染み込んでくる真冬の外気を、コーヒーで追い払いながらね。

 背中に羽が生えて。
 ここには居られない、何処かに行かなきゃいけない衝動。
 何の目的も意味も大義もなく、出会いも別れも袖すり合うこともない夜を越えることでしか埋められない、なにか。

 夜の空気が濃縮された真夜中に紛れるようにして生きていられる、羽を広げられる、あるがままでいられる旅の果てに向かう者は、文明がちょっとやそっと発達したくらいじゃ変われないのかもしれません。
 
 どこから来て、どこへ向かって、どこで立ち止まるのか。
 そこで拾う、目に見えない触れもできないなにか。
 それがありそうな土地を、空を、街を、道を、人を探してしまう性なんです。
 
 そんなものがこの旅の果てにあるのかどうかは、灯りを消した仮の宿で見つめる検索結果の中に見当たらないとしても。

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