ですが、あえて。
あえて、たまにはこういうのもいいんじゃないかと、逆の反対的なややこしい気持ちでちょいと更新してみるか、というお話。
昭和って終わるものなんだと知ったあの日
「時代が変わる」
そう口にしたからといって変わるものでもないけれど、自然とそう口にしてしまうのは、ある程度歳をとってきたからかもしれません。
主役を張っていた看板スターが老いて若くて才能あふれる新人が現れる、なんてことを業界や界隈を問わず見てきたからなのか。
それとも、子供のころに見た誰かや何かを追いかけてリスペクトして、気がついたらその土台の上で花咲いていた、というようなことに美しさや尊さみたいなものを感じるからなのか。
ともかく、ひとつの時代に区切りがついて、また新たな時が積み重なっていくことになりそうですね。
昔はできなかったことができるようになった、あるいはその逆に昔はできたんだけどなぁ、みたいなこともあったりしてね。
平成元年にはできなかったことで、今は当たり前に行っているものも色々あります。
例えばこのブログだってそうですよね。
何処かにいる誰かの文章が不特定多数に向けて公開されて読まれているなんて、テレビを見ながら「昭和って終わるものなんだ」と思ったあの日には想像もつきませんでした。
そして平成も終わる
今日の自分と明日の自分、二人並べてみたってそれほど変わっちゃいないでしょう。ずっとそうでした。新年を迎えようが新天地に行こうが、何か変わるわけでもないし、そういうことを意識したこともなかったような気がします。
それがいいことか悪いことかさえも、特に関心を払う必要を感じておりません。
だとしても、あえて区切りとして、平成の終わりというのをブログに書いてみるのもいいのかなと。
そんなことについて深く考えもしないし、今もそうする気はないんですけど、そんなテーマとも言えない「お題」的なことで思うがままに書いてみたい。
というか、書いたらどうなるんだろうってのが、この記事を書き出した初期衝動です。
時代に名前がついて期間が定まって、それでやっと振り返ることができるようになるんだとしたら、平成の終わりってそういえばああだったよね、みたいなことが何年かあとで訪れるのでしょう。
そのフックとして、この記事を書いておくと自分にとって何かがあるような気がしたんです。抽象的なふわっとした話で、読んでいる人が仮にいるなら「なんだそれ?」 ってなもんでしょうが、またいつものアレが始まったかと思っていただければ間違いありません。
ブログとライフログ
このブログを始めたのが三年前、平成28年の3月です。
つい最近のこと、と言っていい期間ですが、千日経過していると書くと長く続けているような気がしますよね。書くペースはそれほど上がっていませんが、読んでくださるかたはジワジワ増えているようです。ありがたいことです。
そして、我が身の記録を気軽に面倒なことなく残していこうという趣旨で始めたライフログは、平成26年の5月から開始していて、こちらは丸5年経過したことになります。
Evernoteに1ヶ月分をひとつのノートにまとめるようにしていますから、12ヶ月×5年で60のノートがあることになります。
こういうことはほぼ100パー三日坊主で終わらせる私が、よくも5年も続いていると思うと同時に、開始時点で決めたルールである、
・なるべく自動的にログが集まる仕組みにする
この一点が、継続することに意味があるライフログに対して間違ってなかったんだなと、あらためて思います。
ブログもライフログも、私というなにものかの一部を形にしたものには違いありません。昨日の飯も覚えていないような基本的にダメ人間の日常が、王様の耳はロバの耳な洞穴の現代版に蓄積封印されているのは若干怖くもあり、面白くもあるのです
令和になってもこれらは続けていくつもりです。
とか書くとフラグになってしまいそうですから、いつ止めたっていいやそんなもん程度に思っておきましょうか。
旅の途中で時代が変わる
こんな名前を自分に付けるくらいですから、旅はずっと続いていましてね。
どこかで書いたことがあるかもしれませんが、旅なんてものは移動距離ではなく、見知った近所の路地裏だって旅はできるんです。
そこに何を見出すかとかどうやって辿り着いたかとか、いかにしてそこを去ったかみたいなものが、旅人である自分に去来したかどうかだと思うんですよね。
いつからか、「気がついたらいつの間にか旅が始まっていて未だにその途上にいる」 と思うようになりました。何処に行っても誰と居ても。
あちこちを彷徨い歩いて、その一部はブログやツイッターに書いたりしています。今日も彷徨って、彷徨いあぐねて立ち止まって、また歩き出すような一日でした。多分昨日も、明日もね。
そして今は、某道の駅の片隅でこれを書いています。知らない誰かが暮らしている、遠く離れた知らない街にいます。
外は雨でね。
その音を聞きながら仕入れておいた缶コーヒーが喉を伝うと脳と指先が活性化して、ろくでもない駄文の極みみたいな文字が出てくる仕組みになっています。
色々あって10連休と定まり、その暦のとおりに上手いことお休みを取得できたもんですから、先立つものとポンコツの車に不安はあるものの、とりあえず何処かに行こうという衝動に耐えかねてここまで来ました。
今までだってそうでしたから、この先だってそうなんでしょう。
この旅の途中経過
もう三日が過ぎましたが、見事になーんにもしていません。
行ってみたいところをグーグルマップにマーキングしているのですが、いざ現地に来たところでそのマーキングを制覇するような旅もつまらないねと、例の病気が出てきましてね。
そんな中でも気が向いた時にポツポツと行った場所はありますし、行けば行ったで写真を撮ったりボンヤリしたりと楽しんでいます。
どうも今回の旅では、行きたいと思っていた場所の近くまで来たのに多分行かないなというポイントが、どうやらいくつかあるんじゃないかと、薄々感じ始めておりますよ。
いつぞやみたいに旅先でブログを連日更新してみようかとも思ったのですが、なにせ10日間もありますし、やらなきゃいけないという義務感も自堕落な人間には重すぎるのでやめておきます。
そんなこんなで、時代の移り変わりもありつつ、ブログとライフログと旅という私の構成要素を書いてしまった記事になりそうですね。
平成にできなかったことを令和に引き継ぐ
春になると毎年思うのですが、桜の開花の時期に桜前線という言葉を使うでしょう。あれとともに日本を北上してみたいんです。
沖縄で桜の咲き始めから、北海道で桜が散るまでずーっと桜を見続ける旅がしたいなと思って。
桜って散り際にグッとくるものがあるじゃないですか。
今いる場所の桜が散っても、北に行けばまだ咲いているという理屈で、そのグッとくる切なさや侘び寂びや儚さを先延ばしにして心へのダメージを減らしたいなと。そんな年があってもいいなと。
夕陽を追いかけていつまでもあの紅い光が消えないでほしい、みたいなのと一緒です。わからない人は置いてきぼりですよ?
平成は結局かなわなかったので、令和に引き継いでいつかやってみたいなと思うのです。
そんな平成も今日で終わろうとしています。
そしてまだ旅が終わらないようです。