トンボがね、いたんです。車で通勤中の信号待ちだったんですけどね。
トンボって言うとオニヤンマとかアキアカネみたいな、真夏から秋のイメージですけど、今はまだ6月。梅雨時です。
この日も朝からジメッとした空気でね。それを嫌ってエアコンをかけて車の窓は閉めきってたんです。
で、ふと助手席の方を見るとウインドウの下の方、雨が入らないようにゴムがついてる下の方あるじゃないですか。
あのへんにピトっとトンボが止まってて。
ここからがビックリなんですけど、こっちがトンボを見たその瞬間に前脚を上げたんです。
よぉ、トンボだよってな感じですかね。朝だから、おはようなのかな。ともかくそんな感じで片方の前脚を上げたんですよ。
もうね、どこからどう見ても挨拶だったの。
こっちだって人間の端くれですから。誰かに挨拶されたらちゃんと返しますとも。ずいぶんフランクな挨拶だったもんですから、こっちもそんなノリでね。やあやあどうも人間だよってなもんで。
なんなら窓を開けて中に入ってもらって、なんにもないけどちょっと休んでいくかいみたいな空気は出したんですけどね。
トンボだって風に乗って気まぐれにこの車に止まったんでしょうし、私だってたまたま信号に引っかかってここにいるだけでね。
お互い、風の向くまま飛んでいくもの同士、なれ合うことなく挨拶を済ませたら、またすれ違っていく定めなわけで。
で、そのうち信号が青になって、車を発進させたんです。
トンボはピトっと止まったまま。加速すればそのうち飛んでいくだろうと思ってたんですけど、なかなか飛んでいかない。
いや、どうも様子がおかしい。
ちょっともがいてるようにも見えるし、トンボにしてみれば走行中の車にへばりついていれば結構な風圧だと思うんですけど、なんかこう、どうしようもない感じが伝わってくるんです。
その時ピンときましてね。
こいつ、前脚挟まってんじゃないのと。
窓は動かしちゃいませんから、おそらくゴムと窓の間に脚が、挨拶した時に上げた脚がズブっと入っちゃったんじゃないのと。
例えるなら、昭和の刑事ドラマで逃走する容疑者の乗った車に追いすがって、ボンネットとか屋根とかに必死で掴まったまま振り落とされないようにしてるような、そんな状況なのかもしれない。
トンボ界の太陽にほえろ的な。ジーパン刑事みたいな。トンボ刑事。
トンボ刑事が凶悪犯の乗った車に、必死でしがみついてる感じにどうやら今なってるっぽいぞと。
それなら減速してどこかで一旦停車しようかと思ったものの、通勤時間帯ですから後続車も結構いる上に、寄せられるような路肩もない道でね。
むしろ、ちょっと急いでる感を後ろの軽ワゴンが出してくるんですよ。違うんだって、トンボがいるんだって。あんまりスピード出すとトンボの脚がちぎれるかもしれないんだって。
下手すると殉職ですよ。
視聴率のテコ入れのために殉職する回みたいになりかねないんです。
過去の名シーンがセピア色になってカットインしたり。
トンボ刑事初登場のシーンとかね。お前、トンボに似てるから今日からトンボ刑事だ! とか、石原裕次郎に言われて。ブラインド越しに言われて。
そしてある日の朝。
「今日は真っ直ぐ帰るから…」
なんて、内縁の妻が作ってくれた質素だけど美味い朝食を食べながら、ぶっきらぼうに言うんです。羽とかパタパタさせながらですよ、もちろん。
今日は彼女の誕生日なわけですよ。そして正式にプロポーズする予定で、もう指輪とか買ってあるんです。
それが引き出しにしまってあるのを、内縁の妻はもう知ってるんですけどあえて黙ってる。
実は彼女、トンボ刑事が若い時に誤って撃っちゃった犯人の妹でね。
彼女はみんな知ってる。
トンボ刑事はなにも言わないけど、デカい複眼を伏し目がちにしてなにも言わないけど、彼女はみんな知ってるんです。
…そんな朝だったらどうしますか。
こっちは犯人でもなんでもない、善良な市民なんですよ。ただ通勤してるだけなんです。これ以上スピード上げて、殉職されちゃかなわんのですよ。てゆーか殉職ってなんだよ。
安全運転を心がけつつも色々考えまして。
窓をちょっとだけ開けることで脚が外れないかなと思ったんですけど、どうも無理っぽい。
運転中ですから横にいる刑事さんの方ばっかり向いてもいられないし、かといって窓をあんまり動かすと痛いかもしれない。
トンボに痛覚があるかどうか知りませんけど、少なくともそんなことされたらたまったもんじゃないのはわかります。人としてやっちゃいけませんよ、そんなこと。
たかがトンボになにをそんな、と言う向きもいるでしょう。しかもトンボ刑事とか、誰が言い出したんだか。
しょせんは昆虫一匹だろってのもわかります。
わかりますけどね、ちゃんと一度挨拶をかわした仲じゃありませんか。
トンボと挨拶したことありますか? 私だって今までありゃしませんよ。でも、つい今しがた、よおでもなんでも挨拶を交わした相手に、そんな冷たいことできますかって話ですよ。
でね。
もうしょうがないから、会社の近くまで来てるし、とりあえずそこまで行こうということになりまして。
風圧に耐えるトンボに気を使いつつも、交通のご迷惑にならない程度のスピードをキープしたまま、カーブもそーっと曲がってどうにか会社の駐車場に着いたんです。
駐車場に着いて風圧がなくなっても、トンボは動こうとしません。逮捕かな。逮捕ってことかな。
いや、トンボ刑事とか妄想ですから。これはどうも本当に脚が挟まってんだなと、意を決して窓を完全に開けきり、手でトンボをそっとつまんだら上手く抜けたらしくて、ふわーっと飛んでいったんです。
これでようやくひと安心です。ちゃんと飛んでいきましたしね。
…オチなんてないよ、通勤中にトンボが止まった話にオチなんかあるわけないでしょうよ。