わからない人にはもう仕方がないんですけど、とりあえず置いてくとして、わかる人にはそれとまったく同じ心境もしくは症状で、海へ行った日のことを書きたいっていう、そんなお話です。
病の症例
山へ行きたいと思ったことはほとんどないと思うんです。でも海に行きたいと思うことは、山へのそれの比じゃないくらい何度も何度も思うんです。
なぜかなんてのは自分でもわかっちゃおりません。業のようなものなのかもしれませんし、前世が人魚なのかもしれませんし、海のそばに住んだことがあるからかもしれません。
別に泳ぎたくはないんです。
最後に海に入った記憶はいつだったか、まったく思い出せません。少なくとも成人してからは一度も海に入ったことはないんじゃないかな。
一応泳げるものの、海で泳ぐのは波のないプールでのそれよりはるかに体力を使いますからね。海で泳いだりマリンスポーツをすることは、得意じゃないという自覚があります。
海に惹かれて辿り着いて、やることといえば海を見ること。潮風に吹かれること。波の音を聴くこと。
それ以外にはなにもありません。
その日もただただ、海へ行きたくなったんです。
正確には、その日以前も海へ行こうと思っても断念してたんですよね。
天気が悪かったり、時間が遅すぎたり、間が悪かったり。
それも正しいとは限らなくてね。土砂降りだって真夜中だって、行きたくなったら行くんです。そんなことくらいで止められない何かに押されて引きずられて連れて行かれて、海へと彷徨いでるんですから。
でも、何らかの理由をつけて、今日は止めておこうってなった時。そうやって自分の中でケリをつけた日だって、100パーセント割り切れたわけじゃないよって。イチかゼロかしかないわけじゃないでしょうよ、人間ってのは。
だからそんな日は、心の奥底に、底の底の淀みのもっと深くに、なにかが一滴沈むんです。行けばよかったんじゃないか、行ったらなにかに出会えたんじゃないか、行かない理由を探してたんじゃないのか。
もうね、ただの病気ですよね。
そんな不純な一滴が、日々の中でたまっていって、なんかもう理性やロジックでは計れない、どうかしてる衝動のみで旅に出てしまうんです。
今だって深夜の1時45分ですよ。一睡もしてないんだから。昼間は仕事でバカみたいに疲れ切って、ぐったり中のぐったり、グッタリ・オブ・グッタリズだったってのに、眠れやしないわけ。
いや、眠れないんじゃなくて眠りたくないの。
なぜなら書きたくなってるから。書かなきゃいけなくなってるから。
その理由なんてないわけ。あのことを書きたいけど筆が進まない指が動かない神が降りてこないってなことが、何日も何日も続いて、吐きたいけど吐けないけど吐き気はすごいみたいなことになって、今としゃとしゃと書いてるんですよ。
病気でしょう。そんなの。
6月というのは
6月ってのは天気が不安定じゃないですか。梅雨時で、雨がずっと続くかもしれないし、異常気象かなにかは知りませんけど、雨なんかそんなに降らないねって言ってるうちに夏でございますってなったり。
6月ってのは、今やっている仕事的にちょっと暇な時期だったりするんです。休みが取れたり、早仕舞いできたりしなくもないわけ。
6月ってのは日が長くなって、上手く仕事が片付けば明るいうちに帰れる可能性が高いってのもあるよね。冬じゃこうはいかなくて、業務時間中に日が沈むと夕陽もへったくれもないんだから。
休みの日はそれなりに、何かしてたりなんにもしたくなかったりするんです。
だから、チャンスは初夏ってことになるんです。
6月ってのは夏になる前で、夏になっちゃうと海ってのは色んな人が来ちゃうじゃない。海水浴とかバーベキューとか釣りとかさ。なんかキャッキャウフフ系の、浮ついた空気が朝から晩まで流れちゃって、そんなことになるじゃないですか。
だから、6月って時間はあるけど天気がイマイチ、でもじゃあまた今度とか言ってるとそのうちシーズンが始まっちゃって、ただ単に海が見たいからって理由で出かけていくには敷居が高いみたいな、ちょっと心理的なハードルが上がったり下がったりする季節でね。
6月の夕暮れ時に天気が良かったりする日に限って仕事が遅いとかさ。そういう間の悪さがあったりすると、西の空が紅くなるのを見ては、今しかないんじゃないかなんつって、飛び出していくことになるわけです。
冷静にこうやって文字にしてみると、やっぱりアレだ。アレなんだなぁって。
海に夕陽が落ちるから
今いる地域は日本海側でね。
海に夕陽が落ちるの。これがきれいなんだ。
だから、なおさら海へ行ってみたくなるの。
海から遠いところに住んでると、夕陽ってのはせいぜいビルの向こう山の向こうに落ちていくもんだって感覚になるんです。
でも日本海側の、どうにかして海まで辿り着ける地域にいると、夕陽を追いかけるようにして走り続ければいずれは海に出て、水平線の向こうに太陽が沈むのが当たり前になるのね。
それこそ当たり前だろって思うかもしれないけど、旅に出て色んな所で夕陽を見ると、このあたりに住んでる人はこの光景が当たり前なんだよなぁ、なんて。
夕陽に限らず、山奥の田畑に囲まれたポツンとした集落みたいなところには、そこで見ることができるもの以外の概念がないじゃない。
ビルとネオンに囲まれた都会の真ん中だってそう。
漁港の寂れた匂いのする食堂だってそう。
実家がパン屋ならそういう育ちになるし、そこを出て熊の木彫り職人に弟子入りすればそういう暮らし。
修行に修行を重ねて親方の娘さんと結婚までしちゃって子供はいないけど夫婦仲良く歳をとってさ、毎日毎日縁側で茶でも飲んで熊を彫って飯を食って熊を彫ってってやってりゃあ、それが当たり前にもなるんじゃないのかなって
そういうもんじゃないんですかね。
だから、夕陽が今日はきれいそうだってなって。
今からなら海まで行けるまだ間に合うってなって、その上でココロに翼が生えたなら、行っちゃうでしょう。疲れてても、くたびれてても、行っちゃうわけです。
そういうもんなんだって。
手に入ったなら醒めますか
その日もどうにか折り合って、仕事も片付きましてね。
まっすぐ帰って部屋のドアを開けるなり身支度をバーっと済ませて、今くぐったばかりのドアを出ていったのが18時ころだったと記憶しております。
日の入りは19時前だから、最短距離で海へ向かえば、いや、出がけにそのへんの自販機でコーヒーの1本も仕入れて行ったって間に合いそう。
夕陽が海に落ちるのを海のそばで眺める時間帯には、今からだって充分間に合うはずだと、いそいそと出かけていくんです。
疲れてますよ。冷静に考えりゃあどうでもいいような仕事をこなした上に、知ったこっちゃないよと言いたくなるような案件に振り回されてりゃあね、間違いなく疲れてます。
それを麻痺させるくらいのなにかが身体を突き動かしてるような感覚が強いんですよね。
これはなんだろうと自分の中に立ち入ってみれば、自分の衝動に従ってることでの高揚感みたいなもののような気がします。
あのね、子供の時さ。
欲しいものなんてのは、なんでも買ってもらえるような環境じゃない人のほうが多いと思うんです。
今でも、スーパーマーケットとかおもちゃ売り場とかさ、そういうところへ行くと年端もいかない子供が駄々こねてんの見かけたりするでしょう。あるいは、自分の子供がそうなってるのを何度も見てる人もいるでしょう。
ほしいかほしくないかで言えばそりゃあほしい。
でも、でもですよ。
なんでそんなにほしかったのか、それを手に入れても入れられなくても、そんなのわかりゃしないわけ。
そういう時ってそんなもんでしょう。
それって、子供だからって理由じゃない気がするんですよ。
わけも分からずその時はほしくなった。いや、手にはいらないからこそほしくなる。ほしいものが手に入るということそのもの、それを満たしたくてほしいって言ってみる、みたいな。
実際ね、なんとかして手に入れて、すぐ飽きちゃうことなんて星の数ほどあったでしょうに。食べ物、飲み物、洋服アクセサリー、家電にガジェット…
なんか欲しくなって買ったけど使わないもの、あったでしょう?
でも、手に入れる瞬間までは、なんかよかったわけじゃないですか。キラキラしてたし、燃えてたし、情熱みたいなもんがあったでしょう。
どこかへ行きたい衝動に従ってる時って、それと似てると思うんです。疲労が麻痺するくらいの、どうかしてるクスリのように。
海に沈む夕陽が見たい。
それだけのことなのにね。
忘れてしまっている気持ち
でも、考えようによっちゃあ、海に夕陽を見に行くってのは条件が重ならないといけないわけです。
住んでる場所や移動手段、気候の変化、確保できる時間、なにより気持ちの向き方。それらが全部、ピッタリあった時じゃないと無理な話でね。
毎日毎日、場所によっては海に夕陽が沈んでいくのが見られるってのに、そこそこ貴重なシーンだったりするんですよ。
シフトが合わないのか出勤数が少ないのか知らないけど、近所のコンビニでたまーに見かけるちょっとかわいい、あるいはイケメンな店員さんくらいには貴重だと思うんです。例えが間違ってる気がしなくもないけど。
街から少し遠ざかって海へと通じる道に乗って、車内の時計をチラチラ見ながら、純度の高い気持ちで運転を続けていると、空気が黄金色に輝いてきて空が青さを忘れていく瞬間に出会えるんです。
夕暮れのはじまり。一日の終り。
その色に飛び込んでいってようやく、来てよかったなと。色々迷ったり後ずさったりしたけど、来てよかったなと思うんですよね。
もう時計なんかチラチラ見たりせず、海と空と赤く閉じていく太陽を横目に、何度も通ったことのある海沿いの道をただただ進んでいってね。
手に入ったものを愛でている子供のように。ただただ、夕映えの海岸通りを他に何も見えずに走っていって。
写真の一枚も撮りたいしと、車を停めてよさそうな場所を探しているその時は、夕陽が去ったあとの帰り難いようななんとも言えないあの気持ちのことは忘れてしまっているんです。