2004年10月に起きた中越地震の震央に行ってきました

2017年8月6日日曜日

#散歩 #旅

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 2004年の10月にM6.8の地震が新潟県中越地方で起こりました。被害は甚大でした。今年2017年の初夏にその震源地の中心部、震央へ行ってきました。今日はそのお話を。




当時私はライフライン関係の仕事をしていましてね。大きな災害があるとまずはライフラインの復旧作業が必要です。そんなわけで取るものもとりあえず、地震発生の翌日には被災した現地に居ました。
 発生翌日ですが、その日は情報も錯綜しているし道は寸断されているので、一日中待機状態。夜になって虚しくも手ぶらで滞留地に戻り、翌日から被災した地域へ入ることになったと記憶しています。
 
 地震の震源地である長岡市川口地域(旧川口町)はもちろん、小千谷市や長岡市などの周辺地域でも宿泊場所を確保することができませんでしたから、三条市に宿を取って毎日1時間以上かけて被災地へ通っていました。三週間ばかりそんな生活が続いたんじゃないでしょうか。
 
 高速道路は路面がうねっていたり亀裂が入っていて使えないので、国道や県道を使うしかありません。
 宿のある三条市はほとんど被害がなく日常が保たれているわけですが、被災地域に近づくにつれて徐々に景色がすりかわるように変化していきましてね。
 使える道路が限られてるもんですから、みんなそこに集中するわけで必然的に渋滞が始まります。当時は災害復旧などに関わる車両にはステッカーだったか旗みたいなのだったか忘れましたが、とにかくそういう車両だと明示するものがあって、それを表示して通行していたんです。
 
 渋滞に巻き込まれてる車は、たいていそういった表示をしていましたけど、中には被災して避難してるんじゃないかという感じの車両も混じってまして。被害のない三条市あたりまで食料や燃料なんかを買い出しに行っての帰りなのか、助手席にたくさんの買い物袋を積んでいたりしてね。
 当時は家に帰れないから当面車中泊する人もいたようですし、とにかく被災した方面に進むほど異様な雰囲気が日常の光景の中に紛れ込み始めるのです。
 
 
 震源は合併前の旧称を川口町といって、以前ブログに書いたえちご川口温泉のあるあたり。
 今では復興して、温泉施設も隣のホテル、周辺の大きな運動公園も含めて立派な建物があちこちに建っていますが、当時はどうだったんでしょうか。ちょっとその辺りの記憶はありません。
 東日本大震災でも、離れた地域の温泉の温度や量など泉質が変わったと聞いたことがありますし、当時から温泉があったにせよ震災後に出来たにせよ、色々とご苦労はあったんじゃないかと思います。
 
 記憶が定かではないので、旧川口町のどのあたりで災害復旧作業にあたったか覚えていないのですが、大きなスーパーがある交差点で作業したのは記憶にあって、今になって現状と照らし合わせると記憶にあるのは小千谷市っぽいですね。
 川口町に行ったのは間違いないのですが、十数年経った今になって車で走ってみても記憶を刺激するような場所には行き当たっていません。
 印象にあるのは、地震の影響で地面から数十センチ以上突き出したマンホールや、道路が動いてしまって道路脇の白線が切断されたように大きくズレている光景。倒壊の危険があることを示す赤い紙を貼られた家々。止まった信号機。
 作業が終われば車で1時間くらいの変わらない暮らしをしている街に戻るわけですけど、被災地とのギャップがひどくてね。
 
 
 
 昔話はこのくらいにして、今の話に戻しましょうね。
 特定の場所に、しかも到着時間がある程度決まってるなんて場合はナビを使うんですが、基本的には気の向くまま走りたい人なので、今回も震央について以前ちょっと調べた時の記憶を頼りに車を走らせます。

 震央があるのは国道17号線を群馬方面に向かって走り、川口地区で関越自動車道と立体交差するあたり、道の駅とローソンが斜向かいに建っている交差点から行くのがわかりやすそうです。
 道の駅があるのに、入らずに通り過ぎるだけってのはつまらないでしょう。せっかく来たんですから寄っていこうという事に、脳内の会議で満場一致で決まっちゃいましたからまずはそっちへ。
 
 道の駅あぐりの里は、規模はそれほど大きなもんじゃありませんが、物産品も売っていれば軽食も食べたりできますし、この辺の特産物なのかお漬物の試食ができたりして、規模の割にはまあまあ楽しめる感じ。
 それに加えて、駐車場の入り口では鮎を炭火で焼いて売ってるんです。四角い台に炭が起こしてあって、串刺しにした鮎をその脇に立てて炙る感じ。

 (鮎+炭火)✕野外=美味いという方程式は義務教育でさんざん教わってますから、鮎くださいと言っちゃうわけですよ。600円だったか700円だったかな。
 脳内で反対意見も少数ありましたけど、方程式だから。方程式じゃしょうがないし美味いしで、車に戻って鮎をはむはむいいながら食べたわけなんです。
 
 

 
 ・・・まあいい感じに眠くなってきまして。
 まだ6月でしたから、気温もいい感じでね。車だから飲めないけど、今ビール飲んだら最高だななんて思いながら。
 
 
 ・・・気がついたら午後もずいぶん遅い時間に目が覚めまして。車のシート倒して。鮎の串持って。ハッ 鮎がない! って。
 
 冷静に時計を見るとまだ16時になってませんから、メモリアルパークもまだ営業してるんだろうなんて決めつけて、鮎の串は捨てて出発します。
 道の駅のある交差点を山の方に進み、そのまま上っていく道の途中にえちご川口温泉があります。その温泉も越えて更に登っていきますと、震央と書かれた看板が見えてきます。
 
写真はまだ三月頃のもの

 この看板を最初に見つけたのは、まだ雪の残る3月だったと思います。雪の残るって言っても、ここは超の付く豪雪地帯ですから厚みというか高さが1メートルある積雪が残っていましてね。
 人のいるあたりは除雪してありますが、代わりに除雪した雪は人のいないあたりに積まれていくもんですから、溶けるのも相当な時間がかかるというわけです。
 ですから震央への訪問も、完全に雪の溶けた夏に近い頃にしようと思っていて、それが叶ったのが六月頃というわけなのです。
 
 
 被害のあった地域では各所にそれを記録する施設があるようで、今回行ったのはそのひとつ。「震央メモリアルパーク」になります。
 先程の看板に沿って道を進んでいくのですが、どんどん坂がキツくなって、それに伴って人の気配が消えていく感じがしてね。こんな所に本当にメモリアルパークがあるのかしらと思っちゃうくらい、山の中なんです。
 山特有の曲がりくねった急勾配を登っていくと、あれひょっとして看板見過ごした? とか、通り過ぎちゃった? なんて不安感もあったりして。
 それでもナビは付けないんですけど、なんかナビを付けたら負けになるみたいな、訳の分からない気持ちで。もう謎ルールなんですけどね。
 そんなこんなで走り続けていると、道路脇の退避場所のような空間にひっそりと看板が立っているのを見つけました。
 

 このあたりが震央のようですが、周りはどう見ても登坂途中の山道で、ホトトギスのスーッと連れて行かれるような鳴き声以外に音がしません。
 ましてやメモリアルパークらしきものは見当たらず、とりあえずとそのまま進んでいくとしばらく上ってから今度は下り坂。どうも山道のピークを越えたようで、しばらく走ると民家も見えてきたりして、どうも行き過ぎたんじゃないかという気配なのです。
 
 車を返して先程の看板の近くに戻ってみると、その看板のすぐ脇のヘアピンカーブの頂点付近に、さっきは見落としていたそれらしい入り口を発見します。どうやら歩いてしか行けないようです。
 

 看板脇の退避場所に車を停めて、一応はと思って運転中に履いてるストラップの付いたサンダルから、スニーカーに履き替えて歩き始めます。
 「地元のかた以外は山に入ることを禁ずる」なんて看板が立ってますけど、通る車すらいない静まりきった山の中なんですよ。山菜とか採れるのかもしれません。
 ホトトギスの声も相変わらず聞こえるんですけど、それとは違う甲高く鳴く鳥はなんて名前なんでしょうね。自分の足が砂利とか草を踏みしめる頼りない音が、その野鳥の鳴き声にかき消されるような気がしてきます。
 
 入り口は車での進入禁止となっていましたが、一応車が入っていけるようにはなっていて、路面の全面ではなくタイヤが地面に当たる部分だけ舗装されたような道が山肌に沿うように作られていました。
 下り坂のその舗装路は、向かって右手側が山肌の壁になっていて、左手は崖。曇り空が妙に遠く感じるその道を進んでいくと、間もなく赤い標柱が見えました。
 その向こうに何やら看板と小屋のようなものも見えます。 
 

 
 看板に近づいてみたら、「震央メモリアルパーク」と書いてあります。
 
 え、ここ?
 
 ここなんです。
 「メモリアルパーク」というもんですから、何か立派な建物があって、その中で当時にまつわる展示なんかをしてるもんだと。あるいはパークというくらいですから、ちょっとした公園になっているのかなと思い込んていたのですが、実際は震央付近を示す見晴らし台と看板などがあるだけでした。
 公園ですらないのは意外でしたが、山の中という場所が場所だけにこれでいいような気もします。

 冒頭に載せた写真は、下記の写真右にある標柱の上部をアップにしたものです。一段下にある田んぼが震央だそうで、それを見下ろすように立っていました。
  
 


 ちょっと前に、誰かの失言とされた発言で、「東北で良かった」というのがありました。言い方の是非ははともかく、その真意はこういうことなんじゃないかなって感じは、ここに来るとわかるかもしれません。
 震央がこの山の中にある田んぼだった事は、当時被災したすべてのかたにとって不幸であった反面、もしも人が集中する都市部だったらと、当時現場に居て今また震央に立った者として想像せずにはいられませんから。
 
 
 
 なんだかあまり長居する気にもなれず、車も心配ですから写真をいくつか撮ってその場所を後にしました。
 ここに来る前に間違って行き過ぎた道が、更にしばらく進めば国道に繋がっているようでしたから、そっちへ向かうことに。
 途中で、やけに野良猫を見かけましてね。
 道路の真ん中でこっちを見たまま逃げようとしなかったり、遠くからですがスマホで写真を撮ってものんびり座っているのを見ていたら、妙にホッとした気分になったものです。

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